大橋学 : 1949年生まれ。15歳より東映動画、あんなぷる、マッドハウス等を経て、アニメーター、キャラクターデザイナー、監督として数多くの仕事を手掛ける。公式サイト Mao Cloud
1969年、石井清四郎の長女・初根(1948-2001 東映動画出身、絵本やイラスト等数多く手がける)と20 歳で結婚。清四郎は大橋の義理の父である。
親しみを込め、「お父さん」と呼んでいた清四郎について大橋学に語ってもらった。
大橋学から見た石井清四郎
清四郎と初めて会った時のことを覚えていますか?
大橋:まだ結婚する前の1968年、川上景司さんとお父さんと一緒にタクシーに乗ったことがあって、2人は渋谷方面の撮影所かテレビ局に向かったんだけど、別れた後川上さんが「あの2人は結婚するよ。」と言ったらしいんだよね。お父さんは「そうかな?」って感じだったらしいんだけど、川上さんは鋭いね、って話があったよ。
その翌年には結婚します、というのを原宿の家に伝えに行ったんだけど、お父さんは終始無言で、日本酒を注がれて飲んで、飲んだら注いでを繰り返して、了承という意味の酒の飲み交わしを2人でしたことを覚えてる。肝心の初根は自分が来るのがあまりにも遅いから迎えに出てしまって、すれ違ってしまったというね。
長女は唯一の理解者であったとのことですが、長女と清四郎の関係はいかがでしたか。
大橋:大好きなお父さんでしょう。あまり理解されていないのは聞いてたし、自分だけは味方になろう、としていたんだと思う。
初根が高校生の時、アニメ用トレス台を見様見真似で作ってるよ。さすがに配線まではお父さんにやってもらったけど、いい関係ね。一番の理解者ね。
高校の1~2年間は円谷で怪獣のコピー取りのバイトをやってる話も聞いてる。そのバイトの時、怪獣のたくさんいる倉庫を通って行け、と言われて、わざわざ先回りして怪獣の目をギョロっと動かして初根を驚かせたそうなんだよね。悲鳴を上げるタイプではなかったんだけど、相当驚いたらしい。先回りして驚かそうとする清四郎もなんだか可笑しいよね。
同じ道を少しでも歩んでくれたのが嬉しかったのではないでしょうか。よく仕事を手伝っていたと聞いていますが?
大橋:デザイン画とか付属のマークは描いたりしてるよ。家庭内工業だね。これは私が書いた、とかいうのはよく聞いてるから。文字のデザインなどはやっていたと思うよ。
なるほど。船の○○丸とか、書いていたかもしれないですね。
石井製作所から東京特殊研究所へ
1968年頃の石井製作所の様子と、清四郎の仕事について知っていますか?
大橋:案内してくれたけど奥が工場で、その時は真っ暗だったね。昔の製作所の写真を見たけど、自分が知ってる頃はこんなに従業員はいなかった。 第一線の頃はたくさん仕事をやってたけど、初根が高校生位になるとあまりやってる感じではないね。1968年頃は石井製作所ではなくて、東京特殊研究所の看板を掲げてたね。
おそらくウルトラQを辞めてから東京特殊研究所を作ったのではと考えていて、CMやクリーニング試作機など、いくつか請けていたようです。
大橋:その頃はバラバラに仕事を紹介されてると思う。雑誌小学6年生の小学館の人がアイデアを聞きに、定期的に取材に来ていたのに一度遭遇した事があるね。(~1975年頃、東京特殊研究所の石井清四郎として連載を持っていた)その頃は子どもたちの夏休みには毎年原宿の家に行ってるよ。最初は猫を連れて行ったりして。
清四郎本人や初根から聞いた、作品についての印象的なエピソードを教えて下さい。
大橋:1964年から68年の4年間東映にいたのでその間テレビは見てないんだけど、ウルトラQをやってる、という話は聞いてるよ。オープニングのタイトルが回る装置のエピソードとか。テストか本番かは分からないけど、タイトルの文字を切り抜くのも初根がやったのではないかな。(回転するかどうかのテストを自宅で行った)
タイトルの命名についても実際に円谷さんが聞いてきた、という話は初根からも清四郎からも両方から聞いているよ。何かないか?ということでウルトラCよりQがいいんじゃないかという話ね。当時の流行に便乗したということだね。
初根が東映動画に居る時(1967年4月~68年9月)ちょうど清四郎が大泉の東映撮影所に車で何人かで来て「初根!」と動画スタジオに呼びに来たというエピソードも聞いたよ。同時期に東映の仕事をしていた事があるんだよね。
なるほど!その頃だと「ガンマー第3号 宇宙大作戦」(特撮は日本特撮映画株式会社が担当)の頃と考えられますね!
川上さんと石井家は親しくしていたそうですが、川上さんの印象的なエピソードはありますか?
大橋:川上さんは背筋がピンとして、白っぽいのを着てたので白い印象だね。背広かシャツをきちんと着ていて、ダンディーなイメージだね。お父さんも同じくダンディーだったよ。
一度会っただけだけど、お父さんとはウマが合ったのだろうね。家族としても清四郎を見てもらえる、川上さんが言うならば、という安心感のある人だった。それだけ信頼が厚かった。そういうタイプの顔してるでしょう?その後川上さんが亡くなってからは(1973年)舵取りが無くなってしまった感があるね。
川上さんの計画でこんなのがあってね。初根を海に連れて行ってくれると言うんで喜んで付いて行ったら、いきなり、初根ちゃん水着を着て出てくれない?と言われたらしいんだよ。(インド映画、空飛ぶ絨毯のワンシーン、いわばエキストラ)
14歳~15歳でやはり年頃だから恥ずかしくって、ひたすら逃げたらしいんだけど、いきなりのオファーだからね。まぁ言えない事情があって拒んだ訳だけど、ひょっとしたらインド映画で女優デビューしてたかもしれないんだからね(笑)
川上さんとお父さんの遊び心だね。
円谷英二さん、川上景司さんとの関係についてはどう考えていますか?
大橋:「清さん」と呼ばれるような意気投合した部分は凄くあったよね。元々3人で始めたんだ、という話も聞いたことがある。
清四郎は頼まれた以上のことをやるし、よくそこまでやるな、というのはある。呆れる、やり過ぎ、だからこそ信頼されるし、報酬以上の事はやる人だったね。ただ少なからず野心はあったから、表に出たいという部分はあったと思うね。円谷さんとは親しい間柄だったけど、お父さんの場合表向きには名前が出ない仕事だからね。ジキルとハイドじゃないけど2面性は持っていて、出たがりの部分がないとどうしても引っ込んでしまう。
ウルトラQとインド映画ではクレジットされていますが、他作品は名前が出ていないですからね。
大橋:東映動画時代からそうだけど(エンディングなど)名前は全員載らないよね。先週出たから今週は無しね、とか、一度にせいぜい2~4人、多くて6人だし、やってるのに出ないことはよくある。009、ロビンなんかやっても出てないし、名前が載るようになったのはずっと後の話だね。アニメーションでも何でもやってる、と言えばそれが記録だよ。
晩年の清四郎に「自信作は何か」と聞いたことがあるそうですね。
大橋:晩年家に来た時に、お父さんの代表作は何か、というのを聞いたわけ。
「船が岸壁に打ち付けられて、細かく作りこんだ中の部品が見えるシーンが一番だ」と答えたの。タイトルは言ったか言わなかったか、覚えられなかったけど、弱々しく、あれが出来たから満足だ、と言っていたね。
どの作品か分かるといいですよね。模型が家に置いてあったということは?
大橋:ないね。作ってる間だけ一生懸命やればいいのであって、眺めるということはないよ。絵描きも自分で描いて眺めるということはないし、見ていたら終わり。それは郷愁だから。お父さんに関しては自慢はゼロ、そんなことはしなかったね。ただ唯一言ったのは船のことだけ。心に残る仕事がそれだったということだね。
1970年の大阪万博の内容について、清四郎から何か聞いていますか?
大橋:万博の頃はもの凄く元気で野心を持ってたから、新しいことに挑戦しようとしていた野望があった。それ自体はそうなのか、と思って反対はしなかった。人脈とツテを得ることで外国の人や色んな人に会ってたけど、お祭りの中でのことだから後には続かなかったよね。理解されなくても万博というチャンスの場に賭けていた。ただ報われたかというとそうではない、この万博は重要なポイントだと思うね。
円谷さん川上さんが亡くなってから、かなり精神的ダメージがあったと聞いていますが。
大橋:そうだね。自分がアニメーターじゃなく特撮に詳しい人だったらもっと嬉しかっただろうと思うね。ただ一緒の仕事は出来ないけど理解は出来るよ。同じクリエイターとしてね。
一時期清四郎には色々と作ってもらいましたね。
大橋:あまり腕が鈍ってはいけない、ということでビデオテープ用の棚を作ってもらった事があるね。それと同じものを自分も真似して作ったんだけど、それを見て気になって気になって、ああ!それは・・・という感じでそわそわして手を出したくて出したくて、という様子だったね(笑)
子ども達のドールハウスもそう。(1983年)仕事としてやってもらったよ。それは娘としての優しさだね。励みになるでしょう?
やり始めると思い出すと言ってたけど、手が鈍ったと言ってたね。そういえば猫小屋も作ってもらったね。
ありがとうございました。質問は以上です。
聞き手:管理人(孫)