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模型飛行機と石井製作所

石井製作所

石井清四郎が13歳であった1934年ごろから、日本における航空熱は高まりはじめていたようであり、技術的にも模倣期から自立期に入る頃でした。

 

石井清四郎も例外ではなく航空少年だったと思われます。

長兄・石井清一が経営していた模型飛行機屋、石井制作所の影響も強かったと思いますが、本人の記録に拠れば「長男清一とエアエンジンの制作設計プレスの型作り等を研究、飛行まで成功した」とあります。

15歳までに模型飛行機用エンジンの制作、飛行に成功していたとありますが、その事を証明する証拠はありません。

 

しかし、その後制作した飛行可能な機体の写真は残っています。

 

離陸中の機体
離陸中の機体

 

これらの写真には説明文が付いています。

「分解トランク納入出張飛行用 翼型NACA23012 迅風エンジン スピード愛機」とあり、簡単に分解、輸送が出来た展示飛行用と思われます。

翼型NACA23012とは、正確に言えば翼断面形の登録番号で、色々な性能を持つ翼型から最適な型を選んだという事で、翼・胴体の設計も自分達で行ったのだと思います。

 

翼が透けて見える
翼が透けて見え、木骨、羽布張りなのがよく分かる
着陸時の機体
着陸時の機体。ぶれているがプロペラは停止状態だと思われる

 

ただ、この機体は直線飛行しか出来なかったと思います。誘導装置がないので当たり前です。

空中でタイマーでエンジンストップ、グライディング中、という説明もありますので、エンジンを始動させスピードが上がれば離陸、タイマーでエンジンストップすれば滑空、スピードが落ちれば降下して着陸、となったのでしょう。

ですから早朝、無風、長い直線路という3つの条件が必要だったと思われます。

とにかく飛行は大成功したようです。

 

無線操縦式模型飛行機の登場

 

さて、いよいよ無線操縦式模型飛行機の登場です。

1941、2年頃と記録されており、なんと陸軍登戸無線研究所製の無線操縦装置が搭載されているのです。

 

陸軍登戸無線研究所製の無線操縦装置
陸軍登戸無線研究所製の無線操縦装置(受信機)

 

当時の陸軍は何でも秘密、秘密だと私は思っていました。ましてや1941年といえば、太平洋戦争の始まった年です。

どういう理由で民間に使用させたのか不明ですが、陸軍将校が2人見学している写真もあり、飛行場所も代々木練兵場となれば、陸軍と何らかの関係があった事は間違いないでしょう。

 

将校が映る
「我が国初の石井式無線操ジューガソリン試作機」

 

これも飛行は大成功だった様子で、石井清四郎の記述に拠れば「我が国初の石井式無線操ジューガソリン試作機」とあり、販売を考えていたようです。無線操縦装置はアメリカ製のデッドコピーと思われますが、我が国初の、というのはあながちオーバーではないのではないでしょうか。

 

早朝テスト
「代々木練兵場、早朝のウェイト(1貫目)テスト」

 

キャプションに代々木練兵場、早朝のウェイト(1貫目)テスト、とあるのでバラストを搭載した過荷重試験なのかもしれません。

 

空中に浮き上がったところ
空中に浮き上がったところ

 

後方に見える車両が時代を感じさせます。

 

左は写真の傷みが酷く、不鮮明ではありますがエンジンの調整中のようです。

 

着陸時
着陸時

 

地面に石ころなどがたくさんあり、これでよく着陸出来たものだと感心します。

 

無線操縦機の制作中の様子

無線操縦機製作中
無線操縦機製作中

 

無線操縦機の制作中の写真です。

水平垂直尾翼の先細りになったボックス型の主構造材がよく分かります。外形の整形には竹ひごを使っているようです。

 

無線操縦機全体
無線操縦機全体

 

これを見ると主翼の構造がよく分かります。エンジンは単気筒のようで、主脚にはオレオも付いているように見えます。

後方にエンジンが胴体上に置いてあることから、2号機と思われる機体も製作中のようです。

 

模型飛行機屋・石井製作所の商品

九六陸攻の背中
九六陸攻の背中には丸い7.7mm機銃座が2つ見える。

 

おそらくこれは石井製作所の模型屋としての商品ではないでしょうか。

スケールがバラバラですが、右の双発機が海軍の九六陸攻、上の単発機が陸軍の九七戦、左下が海軍の機種不明の複葉3座機です。

海軍では秘密事項であるとして報道写真などでは塗り潰していたと思っていましたが・・・。

 

石井清四郎の愛機、プス・モス機

私の愛機プスモス機
「私の愛機プスモス機、その他」とある。3座の高翼単葉機がそうと思われる。

 

キャプションにある通り、清四郎お気に入りの写真と思われます。おそらく売り物ではないでしょう。グライダーが2機と複葉機1機、高翼単葉機2機のようです。

 

太平洋戦争前の石井製作所

 

これは私を悩ませた写真です。

 

B-17
B-17はどこか優しげなスタイルで、実用機となってからの猛々しさはない。

 

アメリカ陸軍航空隊のボーイングB-17爆撃機の模型だとはわかりますが、尾部銃座と上部銃座がありません。明らかに試作機です。

それはよいのですが背景にある看板を見てください。横書きで現代と同じように左書きなのです。

 

左書きになったのは太平洋戦争後だと教わっていましたから、この写真が写されたのは戦後のこととなってしまいます。敗戦直後の食うや食わずの状況の中で、試作型のB-17など作った理由がまるで分からなかったので、この写真を使うかどうか悩んだのでした。

それがこの写真を見て解決したのです。

 

MC-20
左下・兄清一、右下・清四郎 MC-20完成記念の写真。上の看板の書き方に注目

 

この写真は、MC-20という陸軍の輸送機の模型の完成記念の写真だと思うのですが、太平洋戦争前に写された事は間違いありません。

左側の商店の看板を見てください、右書きです。しかし真ん中上の石井制作所の看板は左書きです。

母に聞いた所、ハイカラな所では戦前から左書きにしていたという事が分かりました。

したがって上の写真は戦前に撮影されたと考えてよい事になります。

でも何故試作機なのかという事ですが、B-17の情報が入り始めた時点で陸軍か海軍かは不明ですが、仮想敵国の識別用飛行機模型が必要だったのではないでしょうか。

どんな距離、角度でどんなふうに見えるのか、識別写真を作るのに使用された、と考える事は不自然ではないと私は思いますが、どうでしょうか。

 

清四郎オリジナルと思われる先進的な設計

 

この写真には私の傑作、と書かれており、清四郎の自信作だったと思われます。

 

清四郎の自信作
「私のケッ作、延長軸によるペラの回転、プロペラは三枚の金属製にした。」

 

エンジン搭載位置を主翼上まで後退させ、機首部を絞り、空気抵抗を減少させ、おそらく外板もアルミ材を使用し抵抗減少に努めているようです。ただし翼の後半は羽布張りです。

 

自信作
「翼のスパーはボックス、スパー2本に依り強力な主翼が出来た」

 

キヤプションにある通りかなり先進的な設計で、高速を狙った設計で期待出来たようですが、残念ながら完成した機体の写真がないため評価できません。

 

機首下面の冷却空気取り入れ口、これでエンジンの冷却が十分だったのかが気になります。

以上が石井清四郎の模型飛行機についての物語です。