倉方茂雄さん、原口智生さん、PROJECT SER 石井良、管理人(孫) 音声録音:PROJECT SER(Onojin)
戦前、石井製作所では兄の清一と共に模型飛行機の製造・販売をしていたことは以前の記事でご紹介しました。
戦後になると外国人向けのお土産として、テーブルランプなどを受注、製作していました。今回はそのテーブルランプについて、倉方さんからお話を伺いました。
石井製作所製、テーブルランプ
原口:この写真は以前倉方さんがおっしゃってたランプですね。
倉方:真鍮ですね。販売してた店がここね。(表参道の古美術店「富士鳥居」さん)
石井:酸洗いってメッキの一種なんですけどそれも家でやってたんですよね。
倉方:それはアームの部分ね。これはバフで磨くんです。
原口:これ今でも売れそうなモダンなデザインですよね。
倉方:もっと四角いお墓の石みたいのもあって、そこに竹なんかの絵を彫ってね。
原口:デザインは石井清四郎さんがされていたんですか?
倉方:それはちょっと分からないんですよ、そういう注文があったのかもしれないですし。
原口:オーダーがあって、こういうのを作ってくれないか、という風にされていたと。
倉方:だと思うんですけどね。やっぱりアメリカの人はメッキってあまり好きじゃないらしいんですね。真鍮を磨いてね。
原口:やっぱりメッキだと安っぽいみたいな感じがあるんですかね。
倉方:竹を彫ってね。彫り屋さんがいたの。
原口:凄いモダンですよね、どれも。ちょっと和風な感じのランプというか。
小沢:時期としては60年代に入ってたんですかね、もの凄く早いデザインですよね。
石井:50年代ですかね。
倉方:昭和で言うと30年代ですね。花瓶に穴を開けて台を付けて、シェードを付けて中におがくずを詰めてね。
(対談ここまで)
戦後、外国人向けのお土産としてなぜテーブルランプの製造を始めたのか、富士鳥居さんの歴史を読めば紐解くことが出来ます。
※一部引用させていただきました。
新・古美術 富士鳥居/富士鳥居の歴史より
「株式会社富士鳥居は、私の祖父・栗原角次郎が浅草に、父・啓助が銀座に古美術の店を開業したのを始めとして、1949年に現在の地、原宿・表参道に面して創立されました。
この富士鳥居と申します屋号は、父が戦後間もない昭和23年にこの地に立った折、一面焼け野原だったこの場所から、富士山と明治神宮の鳥居が見えたことに由来しております。現在の地に移りましてからは、生業の古美術ばかりでなく、新作の絵画や美術工芸品の企画・制作・販売を手懸けて参りました。 当時は大戦後の混乱から、まだ日本国内での古美術の需要は少なく、父・啓助は古美術の販売ばかりでなく、店の業態をいち早く在日米軍の高級将校や海外に向けたものに変え、現在の代々木公園から代々木体育館、NHK一体に広がっていたワシントン・ハイツと呼ばれた在日米軍の将校住宅の近くに店を移す決断をいたしました。」
この対談後、表参道の富士鳥居さんに取材をさせていただきました。
このテーブルランプは富士鳥居の啓助さん、徳助さん、清四郎とで試行錯誤しながらデザインを決め、製作していたそうです。
現在はお作りになってはいらっしゃいませんが、店内には壷をランプに加工した商品がいくつか並んでいました。
石井製作所と富士鳥居さんとは目と鼻の先ほどの距離であり(渋谷区神宮前6丁目・旧穏田)、清四郎が関わるようになったのはごく自然な流れであったと思われます。
お話をお伺いした現在92才の徳助さんによりますと、(戦後)清四郎が旋盤を購入したきっかけを与えてくださったのが富士鳥居さんであること、最初の頃はランプの製作を5~6年間続け、清四郎は徐々に模型製作へ移行したこと、水落しのある松竹の撮影現場や鉄道研究所にも同行したことなど当時のことを丁寧に語ってくださいました。
おわりに
3時間近くに及んだこの度の対談。
原口智生さんが展示コーディネーターをされている、「館長庵野秀明 特撮博物館」に展示された石井製作所製『青島要塞爆撃命令』の機関車の話など、まだまだお伝えしたいことは山ほどあるのですが、当サイトでご紹介できるのは残念ながらここまで。続きは洋泉社さんから発売予定のムック本に掲載されることとなっています。ぜひこちらの発売にご期待ください。
倉方茂雄さんにはこの場ではお伺いすることが出来なかったこともいくつかあり、心残りも・・・
再びお会いする日が訪れることを、心から楽しみにしています。
本当に、ありがとうございました。
そして表参道の富士鳥居さん、ご協力に感謝いたします。